(2)第2部の設置と終戦前後
日支事変の拡大と日本を取巻く国際情勢の緊迫から、臨戦態勢の国策に基づいて、創立以来各科40名の学生定員が、昭和15年新学期(12回生)より80名に倍増された。さらに昭和17年4月には第2部40名が新設された。第2部は夜間に授業を行い実習等は日曜日に行うことになり、入学資格や授業内容などすべて在来の昼間クラスと同等であった。
学生には出来る限り昼間の仕事を持たせ、時局の要請にこたえるよう指導された。昭和16年12月の開戦の日を迎え、学内にもいよいよ臨戦態勢が強まり、黒帽は戦闘帽に、制服は国民服にゲートル巻きと変わっていった。
昭和19年4月より神戸高等工業学校は神戸工業専門学校と改称され、なじみの校章も改変された。昭和20年3月17日深夜、2時間の空襲が神戸を襲い、西代校舎は土木科教室(RC造)を除き全焼した。土木科教室には各科事務室が設置され、翌年5月より市立第一機械工業(松野校舎)を使って授業再開された。
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